昭和四十八年八月二十八日 朝の御理解


御理解第七十八節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事
達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」


 神の機感に適うた氏子と云うのは、どういう心の状態と云うか、どう云う信心をさせて頂いたら、神様の心に適うか、しかもそれが子に孫に、例えばそれが一つの家柄ともなり、人筋ともなって伝わるほどしのものが、出来たとき始めて神の機感に適うた家庭としての徳が頂けると云う事なのです。
 私共の場合は、どうでもだから、如何にあれば神の機感に適うかと云うところに自分の信心の焦点を置かなければいけない、そして、私なら、大坪家にどうも神の機感に適わないところが沢山有る、それを一つ一つ判らして貰うて、それを改まって、私の代なら、私の代で改まって、先ずは、神様の機感に適うた、一つの家風とでも申しましょうか、人柄とでも申しましょうか、そう云うものが出来なければならん。
 それが、子にも孫にも伝わる、それが一つの家柄人筋ともなって、神の機感に適うたのじゃと云う様な、いわゆる人間も、身代も、壮健も、段々約束された、天地の保証を受けた、云うならおかげを頂く様になる、それが、いわば徳と云う事でもありましょう。
 そこでどう云う事になるかと云うと、神のおかげを知らぬから、神のおかげを判らして貰う信心、を思わせて貰う、神のおかげを知る事、同時に神の大恩を知らなければならん。
 神の大恩を知れば、無事壮健で、子孫も続きと仰有る、その神の大恩を知らなければならぬ、まずは神のおかげを知らなければならぬ、神様が下さる信心は無くとも、おかげはやってあるほどしの、この神様のおかげを頂かなければ、実は、立ちいかんのが人間、人間だけではない、生きとし生けるすべての人間がそうである、まして人間は、この神様のおかげを頂かなければ立ちいかんという、信心の大眼目とでも申しましょうか、そう云う神のおかげを段々成る程、そうだと実感させて貰う、そこでです、毎日を不平とも思ったり不足を思うたりしては、相済まぬという、いわゆる神のおかげに対する、感謝の心と云うものが募って来る。
 だから、どんなに判っておると云うても、知っておると云うても、不平不足が有り、心の中にサッパリしないと云うならね、まだ神様のおかげを知っていない証拠なのです、だから、神様のおかげを先ずは知らなければならん。
 本当に、勿体無い、勿体無いと云うところに感謝の生活が有り、喜びの生活がある、それだけではない、その神の大恩を愈々判らして貰うたらです、大恩だけではない、あの人には恩が有ると思うただけでも、いつかはその恩に対して、答えなければならない、報いなければならない心があるでしょう。
 それが天地に対して出来る様になって来る、いわゆる、神恩奉謝である、神の恩に如何にして報いるか、だから、兎に角、神のおかげを知って有り難くならなければならない、大恩を知ってそれに応えるところの、応えられる私にならなければならない、そういう生き方がね、私は、家柄人筋にならなければいけないと思うです、えぇですか、感謝の心、神のおかげを知るところから、有り難い、私共の様な者に勿体無いという事になって来るです、だから、不平ども、不足ども思うたりしたんでは、相済まんと云う事になり、感謝の毎日が出来れるだけではない、愈々神の大恩が判る、大恩が判れば、判るほど、大恩に答え奉らなければおられない心情が、生まれて来る。
 そういう私は、信心の情操と、私はお道の信心で最近、宗教情操と宗教の情操についてのいろんな研究やら、それが問題、テープに取り上げられて話やら、いくらも聞きますけどね、そこんところの根本のところと云わずにね、先の方の何とはなしに和らいだとか、賀ぶとか云った様なね、そういう心がけのところに、焦点がおかれておる様な感じがするのですけれども、私は、お道の信心の情操は何と云うても、天地の大恩を知るところからしか、生まれて来ないと思う。
 神のおかげを知るとか、有り難いとか、勿体無いとか、その心の雰囲気がその形に表れて来るのです、天地の大恩を知るところからです、それに報ゆるところのいわば、人間の一番尊い、これは人間でなければ出来ない、ご恩になったらそのご恩に報いなければ居られないと云うその良心が、愈々育つて来るという事は、これは人間以外の外の者では出来ない事なのです。
 そう云うものが情操に、私の心の中の情操になり、家庭中の情操になって来る、と私は思うんですよ、信仰的情操は、先ずは神のおかげと知り、まずは天地の大恩を、神の大恩を知るところから生まれて来る。
 皆さんこうして朝参りをして見える、それこそ昨日の朝の私の御理解じゃないけれども、それこそ朝露踏んで、まだ白々と夜が明け始めて来ると云う様な、雰囲気の中に大天地の神秘と云うか、大天地の働きと云うか、それを何か天地のエレキを自分の心にも、体にも受ける様な感じがするではないですか、朝参りをする時には、この頃は自動車流行ですから、まあ、自動車の中で、まあ運転しよる者だけは一生懸命運転しよるけれども、あとの者は、眠りこけておるという事では、味わいは無いですね、どう、自動車は、そこんきに止めといてから、少しばかり歩いて来ると云うのも良いかも知れませんね。
 それを判らせて頂く為に、いや自動車の中に乗っておっても実際はです、あのいつか北野の中村さんがお届けされた様に、それこそ旭が昇るか昇らないかという、東の空が白々と明かるうなって来る、もう本当に、そこに天地の親神様を拝みながら、自動車に乗って来るといつか云われた事がある。
 私は、そう云う心が信心させて頂く者の情操でなければいけんと、一筋のお水にも、一粒のお米にも、勿体無い天地のご恩徳をと云う事になる、それが、情操だ、家の中の一つの情操に、それが、そう云うものが、そういう雰囲気が漂う程のおかげをどうでも、私共の代に頂いておかねばならない、そして、それを子供にも孫にも云わず語らずの中に、しみ込んで行く様に、心に、体に、そういう私は家柄とか、人筋とか云うものが生まれて来なければならん。
 今日、私、御神前に頂いたのですけれども、突く様に差す様にと云う様な言葉やら、態度をする人がありますね、もうあの人の言葉には、何とはなしに険がある、そして、こちらが気分の悪い時、自分の心が突き刺される様な思いがする、これはもう、人を傷付けたり、殺したりするのと同じですよね、だから、そういう尊い情操が無いからなんです、何か素晴らしい話をしござるばってん、何とわなしにですね、人をムカッとする様な事を中に挟んで云う人がある。 これは本人もそれでは助かりませんし、その周囲の人も迷惑致します、それから次に、皮肉という事を、肉を破るとこう云います、被害者の被ですね、皮肉、普通は字で書いたら違いますよね、けど皮肉を云う人がある、何とはなしに皮肉を云う人がある。
 これはもう、相手の肉を破る様なものです、皮肉を云われるとそうでしょう、深刻な皮肉になって来ると、本当にそれこそ、肉を破られる様になる、どうでしょうか、皆さん、突く様に、差す様に、そう云うものがもし、私の中に有るとするなら、それは本気で改めなければいけません、それが本当の家柄、今日ここで云う、素晴らしい人柄、家柄、人筋。
 お父さんもあげな風じゃったが、子供もあげな風になって来たら如何でしょう、どうでもいわゆる、信心の情操豊かなですね、神の大恩を知り、神のおかげを知ると云う様な、本当なものが、生まれて来なければ、つい皮肉が出たり、または、自分が気づかんうちに突く様に差す様に、云うだけではない、それを態度にまで表す事になって来る、それは、老人でも何でも、自分の気分の悪い時はガシャーンと戸を閉めて行く人がありますよ、まあどうした奴じゃろうかと思うちから、こっちの心が汚れる、だから信心させて頂くなら、どうしてもそう云う豊かな信心の情操がね、本当に育って行く事を楽しみにしなければいけませんよ、おかげもですけれど、おかげよりも先ず、そう云うものがです、神の機感に適うた氏子に一歩一歩近づいて行く事になるのです。
 昨日、信徒会が東町の教会で、ここから、11名の方達がおかげを頂いたそうです、久留米の井上さんが、昨日は、もうすぐ教会の前ですから、折角こっちへ皆さんが出て頂くから、お食事だけは、家で上げたいから、準備しますから、どうぞと云う事であった。
 それで、皆あちらでおかげ頂かれたであろうと思うのですけど、本当に私は有り難いと思うた、それはまあ、出来るからではありますけれどもです、出来ても仲なか出来る事ではありませんけれども、その中に、何と云えん雰囲気が有って、有り難かったという意味の事を、秋永先生が話しておりました。
 そして、先生この頃は信徒会がですね、もう本当に皆さんがよその教会の発表を聞いておるとですね、みんな合楽風、合楽流になってしまつとるという感じ、私はもうそれが、しきりに有り難いと、それを云うのです。
 もう今までの様な話じや無い、ご用と頂かねば助からんとか、こげなご利益は頂くとか云うものでなくてですね、もう何となしに信心の根本に触れていると云う感じのお話ばつかりなんですよ。
 最近、近所のよその大祭が本当に合楽流になって来たと云う事は、大変に有り難い事だと、皆さん云われる事がある、又、行き方も合楽流と云うのがです、信徒会の中にはっきり現われる様になって来た。
 秋永先生が、最近あちらで、総務ですか、ですからいろんな、裁かれる事が合楽流でされる、今までは例えば、ガリ版刷りで案内状が来ておったのが、秋永先生が、すっと活版刷りでですね、すきっと垢抜けのした物を、用いられる様にしたり、話の中心、そのテーマと云った様な物の出し方も、やはり合楽流になって行っておるのではないかと、同時に合楽での信心と云うものを成る程、合楽で云う根本的な助かりというものが、大事だ。
 最近、成り行きを大事にするとかね、例えば御事柄と云った様な事がね、平気でよその信者さんが云われる様になった、有り難い事だと、それをしきりに云ってました。
 実はね今日新聞を見させて頂きよったら、ある教会の先生が、そこの出社の先生がこの頃から、ここの印刷物のすべてを送って頂けないでしょうか、お金はその度々にお送りしますからと云う申込みがあって送らせて頂いた、そこの親教会の先生が、の事を信者が書いておる記事が乗っておる、それが私が云うて居る事と同じ事を云うて居られるのですね、だから、こういう東京の近所なのですけれども、合楽の例えば言葉一つにでもですね、表現でもそう云う事になって来たのは、有り難いな、私も、秋永先生とその話をした事でございます。
 そこのところを少し読んで見ましょうかね、
「先日も教会お居間の方で、些細な問題ですが、他から投げかけられた波紋の為に、家庭内に、生じた問題を家族で話し合って、解決の道を見つけ出した経過を、奥様にお話申し上げておりましたところ、丁度お広前のご用から下がって来られた親先生が耳にされ、今の話の解決には、少しも信心の匂いがしないから、ちっとも私の胸に響いて来るものがない、それでは世間話と変わらないではないか、信心の血が少しも通っていないから、解決したかに見えても、もうすでにその時には、次の問題を生み出している様なものだ。」
 ここんところを私がいつも皆さんに申します、例えばそこに一つの問題があっても、人間心で解決してもです、それは絶対、又次の同じ様な問題が起きて来るのだ、問題の形は違っても、難儀なら難儀は同じ事だ、人間心で解決したんじゃつまらん、神様のおかげで解決されたものでなけりゃ、根切れ的な事にはならないのだと、云う、これは私の持論なんですよね。
 次にもです、常々潔い信心をされる親先生とか、これ何か合楽で発明した様な言葉です、ね、潔い信心と云う事をここで申しましょう、難儀と云うものは、決して人間的な解決をしたのであっては、それと同じ様な、難儀というものは次に待っているのだと、皆さんもここんところは、一つ本気でね自分の物にしなければいけませんよ、人間心で解決したってね、それは、解決にはならんです、又、出来るです、これは私と親先生の場合なんかそうでしたよ。
 弁明をして、それは、こうこうでしたと云えば、あぁそうじゃったのと云うて安心して下さる、喜んで下さる、かと思うと、何日か後には、又、合楽がどうじゃった、椛目がどうじゃったと云う問題が起きておったです、だから、私は云わんと決めたです。
 これは、神様のおかげを頂く以外ないと云う様にですね、これはもう本当にそうなんですから、人間心の解決やら、人情をもっての解決では駄目です、神様のおかげを頂かなければ、同時にこれは、一寸他の事に、これは合楽流な助かり方、合楽流の言葉が、もう全国あちらこちらで使われておると云う事は有り難い。
 ここの信徒会だけのものじゃないと云った様なものを感じたんですけれども、とても、おかげを頂きましてね、今日は皆さん、家柄人筋となる、その皆さんが、ある場合、ある意味において初代でしょうか、さあ、そこそこに必ず家風と云った様なものは有ります、だから程度の低いものは、高めねばなりません、高すぎるのは困ったものですから、それこそ、信心の情操を持って、程度のところにおさめねば出来ません。
 下郎の分際でと云う事は、信心では出来んのですよ、まるきり自分の方の、なごのごと思うとる、この辺の言葉ですがね、学問がないから、例えば、百姓のくせに何云いよるかと云った様に、昨日、繁雄さんと、この事を話した事でした、本当に、百姓と云うと何かこう見下げられる、けど昔から、士農工商と云うて、武士の次におかれたのが百姓ですから、そげん卑下する事は無いですよと、昨日話した事ですけれども、士農工商、それすらがいけない、もう本当に神様の氏子としての、行き方が出来る事が信心です。
 それが今云う有り難いとか、勿体無いとか云う状態からは、そういう高慢ちきな考え方がなくなって来るです、そこで、ここでは、プライドを捨てよと云う風に申します訳です、プライドがあるから、私のプライドに傷付けられた、とか何とかになるのです。
 だから私共、本当に屑の子の自覚と云うか、または、親様の神恩を知っての有り難い、勿体無いの生活とか、または、神の、大恩と知ってその恩に報いなければ居られないと云った様な心の状態、そういう素晴らしいものが、神の機感に適うのですから、先ずそういう在り方になる事を先ずつとめなければいけない。
 そして、それを子にも孫にも伝えて行かなければならない、そして、これは余談でしたけれども、愈々合楽流と云うものが、全国津々浦々にまで、それが通じる様になって来る事は、神の機感に適うた表現であり、神の機感に適うた信心なんだからです。
 だから皆さんがそれを愈々身につけて行って、一つの手本ともなる様なおかげを頂いて貰わなければならない、そこから、身代が出来、壮健になり、人間も身代も、健康も約束されるほどしのおかげを私共の時代に、その基盤を作っとかなければならない。
 それが三代続いたら、これは愈々天地の機感に適うた氏子と、さよう仰有るのですから、こう云うつまらない家風、こんなにつまらない、おかけの受けられない根性、神の機感に適わない考え方と云うものを、先ずは取り除かなければ、よい人柄、よい家柄人筋となって来ないのです。
 ここんところをひとつ、先ず私共がおかげを頂いて、それを子にも孫にも伝えさせて頂く信心をさして貰うて、子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来ると仰せられるのですから、その代勝りの頂ける基をね、作っとかなければならんと思うのでございます。       どうぞ。